成瀬正壽(なるせまさなが)

 

成瀬正典の四男で天明二年(1782)二月二三日江戸に生まれる。

生家は松岡氏、四二歳の二歳子は他姓を名乗るという俗説に従って森川千之助昌寿と称した。

寛政五年(1793)正月元日、成瀬家に復し、正壽を名乗り

同八年三月、千三郎に改めた。

同十年三月、長兄正賢卒し、次兄篤行も病気のため

八月一三日、嫡子に定められ、主殿と改名。

十一年五月、年寄用向見習を命じられ、扶持方八六人分を賜った。

十二月主殿頭に昇進、翌十二年七月、雑用として

年二千俵を下賜された。

文化六年(1809)二月、大久保山城守忠津喜の娘於田鶴

後嘉津と婚姻、同年七月、父正典隠居につき

家督ならびに犬山城相続を仰せ付けられ文政七年(1824)

十二月三日 付家老、八朔五節句には幕府へ御礼参上し

天保四年(1833)十二月には、公儀月次御礼言上し

同六年十一月に総出仕登城等すべて諸侯同様の待遇を許された。

倹約令の為、尾張表は歌舞伎等の興行禁止であったが

天保初年の犬山城下では小芝居の興行が特別に許されていた。

同八年三月、尾張藩主幼年のころより養育に格別心を用いたとして将軍家斉より金銀高蒔絵の鞍鐙を賜った。

将軍の十九男で幼年の斉温(なりはる)を尾張の養子に迎えた関係上江戸定詰を命じられ

江戸・名古屋両地における勢力旺盛な時代となった。

 

成瀬正住(なるせまさずみ)

 

成瀬正壽の長男、文化九年(1812)

九月三十日名古屋に生まれる。

生家は垪和氏、初めは偽三郎、

同十四年四月、万之助と改め正住と名付けた。

文政五年(1822)正月、小吉と改め、

同十一年十二月諸大夫を仰せ付けられ主殿頭に任じられる。

天保元年(1830)十月、加判、雑用二千俵を下賜される。

同三年、千俵加増になり

同六年二月、奥平大善太夫叔母鏐(おばりゅう)と婚姻

同七年九月斉温夫人近衛福君の迎えとして上洛

同九年十月父の卒去で,十二月八日遺領三万五〇〇〇石と

犬山城を相続し隼人正と改めた。

翌十年二月、斉温俄かに薨じ,継嗣問題が起り

名古屋藩士間で議論沸騰の折、また犬山焼改革の要があって

病と称して、一時犬山在邑を願い出た。

帰邑後は文武を奨励し、

犬山の啓道館・名古屋に学問所(後に要道館)を設立、

高田務を挙用し村田太乙を聘し、

また庭内に窯を築いて花紅葉及び赤絵呉州を写し、

犬山焼きの発展に寄与した。

城主として、三,四年の永住はそれまでに無く

今日の犬山繁栄の基盤を作った。

天保十三年には余坂より大火が起こり

松の丸御殿・巽・坤・御成・宗門・屏風の

五櫓二門墻塀(しょううへい)に延焼したが、

幸いにも天主は無事であった。

火事の後復旧をいそぎ、翌十四年十一月にはほぼ竣工し、

斉荘(なりたか)を犬山城に饗応してその威力の大きさを示した。

 

加藤清蔵(かとうせいぞう)

 

文化十四年(1817)

丸山窯の創業者上本町の島屋宗九朗から

犬山焼の事業を譲り受けた同町内の綿屋太兵衛(大島暉意)は

元粟田焼の陶工 藤兵衛・久兵衛の両人を雇い

犬山焼の品質向上をはかった。

しかし窯の仕上がりが思うにまかせず、歩止まりも極めて悪く

運上にも難渋するほどであった。

文政五年(1822)

成瀬家の知行所である春日井群上志段味村から

加藤清蔵を招いて、その発展をめざすこととなった。

清蔵はろくろの名手で、とりわけ大物作りを得意とし

そのうえ窯の焼き上げも巧みでもあったので大いに進歩をみた。

文政九年(1826)

三月には、上志段味から 虎蔵(寅造)がきて磁器の製造も始めたが経営は一向に好転せず、

天保初年、窯主 綿屋太兵衛はついに廃業のやむなきに至った。

前途有望と思われた事業の挫折を惜しんで

成瀬正壽は清蔵に資金を扶助して窯主とした。

そのころ水野上志段味から水野吉平が招かれ、

清蔵の丸山窯復興を助けた。

吉平は後に惣兵衛と改めた。

赤絵にも堪能であったので、清蔵窯の白磁に上絵付された

惣兵衛の作品は,明代の呉州赤絵の本歌に迫る程の悠品であった。

天保六年(1835)には、赤絵の名手道平も加わって

さらに優れた赤絵物が生み出された。

現在残るこの時代の赤絵、雲錦手等の作品の大半は

清蔵のろくろによって作り出された。

清蔵はまた皿や鉢の外側に、竜等を千彫りしたり

雲錦模様を上絵付したものの内側に漆を塗り

金蒔絵を施した漆器をも試作した。

犬山焼発展のために、全力を傾倒した大恩人といえよう。

 

松原惣兵衛(まつばらそうべえ)

 

旧姓を水野吉平といい

文化二年(1805)

十一月十三日春日井群志段味村で出生

天保初年、犬山焼丸山窯の窯主となった加藤清蔵から

成瀬正壽に願い出て、招かれて犬山に来て清蔵の窯に協力した。

吉平は丸山新田に住み、

後 松原仙助の娘の婿養子となり名も惣兵衛と改めた。

惣兵衛の生い立ちは詳らかではないが、

京焼の磁祖であり赤絵の名工といわれる奥田頴川の弟子で

木米・道八等と同門の、瀬戸の頴渓に師事磁器焼成や

赤絵の技術を習得したのではないか。

惣兵衛が使用した赤絵の具は独特の色合いと

重厚な味わいがあり、今も「惣兵衛赤」として

その調合が伝えられている。

また道平を犬山に将来したのも惣兵衛であって彼が犬山焼に寄与した功績は偉大であった。

当時犬山あたりでは呉州赤絵の名品に接する機会はおそらくなかったと思われる。

正壽・正住等は犬山焼にとくに熱意を持ち

広く呉州赤絵の品々を求め、

また、正住は三光寺御殿の庭に上絵窯を築かせ

僧兵衛等の職人を召しいて意匠等にいろいろ工夫を凝らせた。

これが赤絵や雲錦の優れた作品を生み出す基となしていると思われる。

惣兵衛は神社・仏閣に多くの作品を寄進しており

中でも

継鹿尾山寂光院旧蔵の仁王像香炉万蔵院の狛犬 及び

赤絵瓶子各一対、

針綱神社赤絵瓶子東之宮杜狛犬一対、

滿寺赤絵花器一対等が知られている。

これ等の作品にはそれぞれ

惣兵衛・清蔵・所助・道平等の寄進者名と作者銘が記されている。

一般に市販された当時の作品に

作者の款・銘が全くない時代の製品であるだけに

これ等の奉納品は作者の作風を知る唯一の手がかりとなろう。

 

尾関作十郎信業(おぜきさくじゅうろうのぶなり)

 

文化二年(1805)

四月五日春日井群林村において製瓦業を営む常八の長子として生まれた。

幼より学を好み、少壮に及んで

名古屋藩士岡孟彦に就いて国学を修めた。

生来敬神尊王の志厚く、殖産興業の念も深かった。

文政十年(1827)父常八が成瀬家の御用瓦師市郎兵衛の株を譲り受け、引き続き御用を仰せつけられた。

製造所を犬山に設け、父に代わり事業を監督し犬山に寓居した。

以後本業のかたわら付近の林野を開拓して桑・茶・果樹等を栽培、

嘉永三年(1850)から製茶業を兼業して販路を信州方面にまで拡張した。

また、この地方は上古には養蚕・製糸も盛んであったが

その後衰えて、嘉永・安政のころには絶えて養蚕する者もないのを嘆き

率先して飼育研究、近隣にこれを指導奨励したため

当地の養蚕は他の群村に先だち盛んになったといわれている。

さらにまた犬山には、元禄年間より犬山焼の製造が行われ

今井村の庄屋伝三郎が窯主となり

美濃の陶工の手によって焼き出されたが

安永十年(1783)に一旦廃絶した。

助等の名工によって赤絵呉州・雲錦手・染付磁器等

多彩な名品佳器を焼き出し

地方の特産品として発展させようとしたが

維新の変革期に遭遇して再び衰微の途をたどり廃絶の危機に瀕した。

これを惜しんだ作十郎は、

清蔵・惣兵衛に資金援助を与え

また自らも慶応二年(1866)製瓦場の傍に陶窯を築いて

茶壺等の製造を試み、一応は成功を収めた。

しかし明治初年に及んで、清蔵等は廃業のやむなきに立ち至った。

犬山藩はこれを復興しようとして、新たに物産方をおいて

瀬戸から加藤善治を招き、専ら製陶に従事させたが

これも幾ばくもなく廃藩とともに休止するに至った。

ここにおいて作十郎は犬山焼の継承を決意し、

藩の経営した製陶場を譲り受け、職工を選択・原土を精選し、

工場を増設する等努力を重ね

失敗にも屈せずようやく復興し今日の犬山焼の基を築いた。

犬山焼中興の祖といえよう。

明治六年(1873)

製瓦、製陶の業を長子 善左衛門(二代目作十郎信美)に譲って引退、名を 閑平 と改め専ら風月を友とし

懐を吟詠に託し、

石州流の茶人長島閑哉・神戸弥左衛門・赤堀鉄丸等と交友した。

「尾関作十郎信業陶窯跡愛知県」の記念碑が

モンキーパークのバラ苑内にある。