犬山焼の祖は、宝暦年間
(1751-1763)から
今井村宮ケ洞で [犬山]等の窯印を捺して焼き出されていた。
美濃焼の陶工による今井窯の時代は
安永10年(1781)
3代目窯主、奥村太右衛門が歿してその終わりを告げた
それから約30年後の文化7年(1810)
当時の犬山城城主第7代成瀬正壽は
今井窯の廃絶を惜しんで犬山焼の再興をはかり
犬山上本町の島屋惣九朗に命じて
犬山白山平の南麓に茶碗焼場2反6畝20歩
土取場3畝10歩を貸し与え
燃料用松材を丸山付近の山林から伐採することを許す
等の援助を与え丸山窯を創業させたと言われる
惣九朗はどこから職人を入れ
どのような製品を焼きだしたか等の記録も
それと推測される製品らしき物も全く不明で
その生産が行われたとしても
極めて微々たる物であったと思われる。
文化14年(1817)になって、やはり上本町の住人で
綿屋太兵衛(大島暉意)がこの窯を譲り受け
一宮在の大海道に住む叔父に当たる人の紹介で
京都三条の粟田焼きの陶工であった
藤兵衛、久兵衛の両名を雇い入れて
粟田焼きに似せた薄手の大根焼きなるものを焼いた
しかし
ひと窯から40両位の揚がりがあるという藤兵衛の布令込みに反して
半焼けや疵物ばかりで無事物はようやく2歩止まりということで
到底採算の取れる状態ではなかったようである
そこで太兵衛は瀬戸系の信頼のおける陶工を入れ挽回を図ることとし
文政5年(1822)3月
成瀬家の知行所であった春日井群上師段味村から 加藤清蔵を招いた
清蔵はまだ年は若かったが
大物作りを得意としたロクロ挽きの名工でもあり
窯焼きにも熟練していたらしく丸山に住んで作陶に専念した為
かなりの成果を収めたようである
また、同9年(1826)には同じ師段味から加藤寅蔵が来て
清蔵の窯で染付磁器の製造を始めた
しかし窯主の太兵衛は
創業以来10年近い間にかなりの資産を注ぎ込んだが
経営は職人まかせであった為に
自分への利益は殆んど還元されなかったようである。
天保初年には遂に事業から手を引くこととなった
ようやくにして発展のきざしが見え始めた時機であった為
城主はこれを惜しんで清蔵に資金を扶助して窯主とした
清蔵の苦心経営と寅蔵の瀬戸でも見られぬ純白磁器の製造が軌道にのって間もなく
天保2年(1831)には、師段味から水野吉平が来て
清蔵の窯に協力し、瀬戸ではやらぬ赤絵付けを開始した
吉平はどこで赤絵の技術を見に付けたかはわからないが
その方法も追々進歩をみたようである
この吉平は後に松原仙助の娘と婿養子となり
名も惣兵衛と改めた
天保6年(1835)
松原惣兵衛と懇意な名古屋伝馬町の筆墨商大学堂の紹介で
陶画工逸兵衛を雇い入れた
この人は通称道平と呼ばれており
京都の奥田頴川と並び称される赤絵の名手であった。
こうして清蔵の窯で寅蔵の作り出した純白の素地の上に
惣兵衛・道平等が赤絵の筆を振るって
一挙に発展の気運に向かったのを喜んだ城主は
この機を逸せず犬山焼を振興するように
天保7年には、更に援助を与えたということである。
天保9年には、7代城主正壽が逝去し
8代正住が封を継いだ
この正住は、城郭内の三光寺御殿の庭に絵付窯を築造させ
城主の財力で蒐集した明代の赤絵呉須の大皿や鉢等を手本にして模写させたもので
本歌と比べて殆んど遜色のない見事な製品が作られており
実に驚異的な進歩であったと思われる
また、画家の福本雪潭に春秋に因んで桜ともみじの下絵を描かせ
これに倣って雲錦手の絵付けを命じたと伝えられ
今日まで、犬山焼のシンボルとして
広く愛好されている
またこの頃、道平が
犬山八景の図をはじめて酒壺に描いたものも残されている。
同時期に犬山では盛んに土人形が作られており
素焼きした型作りの雛人形や
武者人形等に泥絵の具を塗って彩色を施したものであったが
その人形の細工師であった、兼松所助が清蔵の窯に招かれて
陶製や磁器製の香炉、狛犬の細工物を手掛けていた
継鹿尾山寂光院旧蔵の仁王蔵の香炉には
細工人初助(所助)・窯方清蔵・吉平赤絵師逸平衛の
作人一同の銘があり
犬山焼の貴重な名品であったが今は所在不明となっている。
満蔵院へ惣兵衛が寄進した磁製の狛犬も
格調高い作品であってヘラ彫りで兼松助作とある
その他にも
信仰心の篤かったと思われる惣兵衛等の寄進した香鉢
花瓶等に作者銘の入ったものが
市内の寺社等に数多く保存されており
当時の工人達の作風を知る上からも貴重な存在である。
また、所助は陶器の絵付けにも秀れた作品を残しており
赤絵に花鳥を配したものが多く、
緑の中に若竹色でアクセントを付けた絵付けには
個性的な作風が感じられる
嘉永4年(1851)から犬山焼の絵付けに参加し、
明治30年迄の46年間
犬山焼の陶器の絵付一筋に生きた成瀬家家臣の近藤清右衛門は、
廃藩後は清九朗秀胤と名乗り二村と号した
彼は、寺島華溪について狩野派を能くしたといわれる
当時 御目見え以下の同心には
勤務の余暇に内職が許されていたので
清蔵の職場で天性の画才を生かした人物であった
道平・所助等とともに常に陶画について研究し
論じ合って犬山焼の絵付けに改良を加えた
城主の所蔵品の中から、
交趾焼の品々を写したものも残されており
廃藩後は作十郎の窯にあって幾多の業蹟を残した。
嘉永6年(1853)には、素僊堂川本治兵衛が
同じく瀬戸から井上良吾を伴って犬山窯へ来て丸山窯を築き
祥瑞写しの染付け磁器を焼いたと伝えられているが
窯の耐火材料の関係からか窯のトラブルが続き
製品は2・3割程度の歩止りであったようである
そのうえ犬山窯の職人との摩擦でもあったのか
わずか1年余で瀬戸へ引き上げ
その後は江戸へ移ったと伝えられる
〔犬山焼本窯元 5代 尾関作十郎〕
信長・秀吉の安土桃山時代に
可児市久々利の大萱・太平で栄えた美濃焼きの分派として
今井の奥村傳三郎が今井宮ヶ洞で開窯したのが
今井窯の始まりである
今井窯の経営は初代傳三郎のあと
その子傳三郎(通称源助)が引き継ぎ
21年後の寛延4年(1751)8月に源助が歿すると
その子六右衛門が三代目窯元になり
安永10年正月に亡くなったとされている
これら三代百年に亘る窯業について紀年銘のある作品を見てみると、次のようなものが遺存している
最も古い作品とされているものは今井石作神社の狛犬である。
その背面に
『奉寄進・尾州丹羽群今井村 林 長兵衛 元禄十弐年卯月吉禅日 吉次代』
とのヘラ書きがある
次に
今井光陽寺墓地に立てられた
利他陶製仏像を挙げることができる台座に鉄釉で書かれ
背面に
『幽屋清関庵主享保七寅年十二月、忠右衛門父』
とあり奥村忠右衛門という人が父の菩提を弔うために
元文四年(1739)に注文作成したことがわかる
今井窯では、こうした特殊用途の作品に専念したのではなくて
一般庶民が日常生活で使用する「お勝手物」
と呼ばれる生活雑器を主に生産していた
従ってこれら作品に絵付けをしたものは極めて少ないが
それでも、火鉢に松と鶴の絵を鉄釉であっさり描いたものや
皿に中国の風景が北画風に描かれたものがあり
また鉄釉でかくかわりにヘラで絵や模様を削ったものも残っている。
天保13年(1842)、
犬山城の南東方にある余坂村の犬山城御用瓦師高山市朗兵衛の
株を譲り受けた尾関作十郎信業
その瓦窯から出火した火災は折からの南東風にあおられて
余坂・魚屋町を焼き尽くして城内に延焼する大火となった。
その責を問われ、一宮の代官所に連衡されたが
住民らの嘆願により罪をゆるされ3日ほどで放免となった。
作十郎は火災のことを考慮して丸山へ移し
さらに、加藤清蔵や惣兵衛の犬山焼を援助したが
両名の経営が不振となったので
慶応2年(1866)九月に至って作十郎は
この株を譲り受ける事にした
信業は天性怜悧で学問に親しみ
当地方の殖産を考え自ら養蚕すら試しに手がけたという
隠居後は関平といい
俳句もたしなみ俳名を閑夫と号した(明治12年八月歿)
明治元年犬山藩が誕生し
同四年四月には犬山藩物産方でも工業振興のため窯業を始め
加藤善治に窯方を担当させたが、翌五年の廃藩と共に廃止された
一方信業のもとでは清蔵・惣兵衛の二人が協力して
明治四年のオーストラリア博覧会に犬山焼を出品したが
まもなく両名とも高齢のために廃業した
信業はその間次第に犬山焼の生産量を高める一方で
明治十年には内国勧業博覧会へ出品し
さらに各府県博覧会・共進会にも積極的に出品し
技術の革新につとめていた
そうした実績を買われて明治十一年には愛知県から
「陶器製造資本金」として三百円の貸与をうけた
信業やその子、信美(二代作十郎)は
独立小資本での将来を思案し
また時の群長松山義根の助言をうけ
明治十六年十一月に至って
町内外から出資者を募って犬山焼会社を設立したが
この際にも愛知県は資本金の一部にと四百八十円を
貸与して犬山焼の育成を図った
ところが明治二四年の濃尾大地震による被害は甚大で
工場のすべてが大破したため、ついに会社を解散して
廃業のやむなきに至った
二代目作十郎は廃絶を憂い、窯を復興した