幕末・明治期の犬山焼

天保13年(1842年)、尾関作十郎信業は、犬山城の南東にある余坂村の犬山城御用瓦師・高山市朗兵衛の株を譲り受けました。その瓦窯から出火した火災は折からの南東風にあおられて余坂・魚屋町を焼き尽くして城内に延焼する大火となったのです。その責任を問われ、一宮の代官所に連衡されましたが住民らの嘆願により罪をゆるされ3日ほどで放免となりました。作十郎は火災の危険性を考慮して瓦窯を丸山に移し、さらに、加藤清蔵や惣兵衛の犬山焼を援助しましたが、両者の経営が不振となったので慶応2年(1866)九月、作十郎はこの株を譲り受ける事にしました。

信業は天性怜悧で、学問を好み、自らも養蚕に挑戦して地域の増産に努めました。

隠居後は関平と名乗り、俳句もたしなみ俳名を閑夫と号しました。(明治12年八月没)

犬山焼 赤絵 唐草 赤玉 とり 雲錦手 一輪挿し 尾関作十郎陶房
犬山焼 赤絵 唐草 赤玉 とり 雲錦手 一輪挿し

明治元年(1868年)に犬山藩が誕生し、明治4年(1871年)4月、犬山藩物産部が産業振興のために窯業を始め加藤善治に窯方を担当させましたが、翌5年の廃藩と共に廃止されました。

一方信業の協力のもと、清蔵・惣兵衛の二人が明治四年のオーストラリア博覧会に犬山焼を出品しましたが、まもなく両名とも高齢のために廃業しました。

信業はその間、犬山焼の生産量を徐々に増やす一方、明治十年には内国勧業博覧会に出品したほか、各県の博覧会やシンポジウムに積極的に出品し、技術の革新を図りました。

明治11年(1878年)には、その功績が認められ、愛知県から「陶器製造資本金」として300円が貸し出されました。

犬山焼 赤絵 唐草 とり マグ 尾関作十郎陶房
犬山焼 赤絵 唐草 とり マグ

信業やその子、信美(二代作十郎)は、独立小資本での犬山焼の将来を考え、当時の町長・松山義根の助言で明治16年11月に町内外から出資者を募って犬山陶器会社を設立しました。この際にも愛知県は資本金の一部にと480円を貸与して犬山焼の育成を図りました。

ところが明治24年(1891年)の濃尾大地震による被害は甚大で工場のすべてが大破したため、ついに会社を解散して廃業のやむなきに至りました。

二代目作十郎は廃業を憂い、窯を復興したのです。

犬山焼 赤絵 唐草 雲錦手 煎茶茶碗 ぐいのみ 尾関作十郎陶房
犬山焼 赤絵 唐草 雲錦手 煎茶茶碗 ぐいのみ