ゆかりのある人物と歴史 1


国宝 犬山城
国宝 犬山城

成瀬正壽

(なるせまさなが)

第6代当主・成瀬正典の四男で天明2年(1782)2月23日江戸に生まれる。尾張藩の附家老、尾張犬山藩成瀬家の第7代当主。

寛政10年3月、長兄正賢が卒し、次兄篤行も病気で倒れたため、8月13日に嫡男となり、文化6年7月、父正典隠居につき家督ならびに犬山城相続。

倹約令の為、尾張藩は歌舞伎等の興行禁止であったが天保初年の犬山城下では小芝居の興行が特別に許されていた。将軍の十九男で幼年の斉温(なりはる)を尾張の養子に迎えた関係上、江戸詰めを命じられ、江戸・名古屋両地における勢力旺盛な時代であった。

 


犬山城下町 犬山祭 車山
犬山城下町 犬山祭 車山

成瀬正住

(なるせまさずみ)

第7代当主・成瀬正壽の長男、文化9年(1812)9月30日名古屋に生まれる。尾張藩の附家老、尾張犬山藩成瀬家の第8代当主。

天保9年10月父の卒去で、12月8日遺領三万五千石と犬山城を相続した。

天保10年2月、斉温が急逝し、後継者問題が起り、名古屋藩士の間で議論が沸騰し、犬山焼の改革が重要であることから、体調不良を理由に一時的に犬山に滞在することを願い出た。犬山に戻った後は、芸術の振興に努め、犬山に啓道館・名古屋に学問所(後に要道館)を設立、高田務を挙用し村田太乙を招き、庭内に窯を築いて花紅葉及び赤絵呉州を写し、犬山焼きの発展に寄与した。城主として、今日の犬山の繁栄の礎を築いた。

天保13年には余坂より大火が起こり、松の丸御殿・巽・坤・御成・宗門・屏風の五櫓二門墻塀(しょううへい)に延焼したが、幸いにも天主は無事であった。火事の後、復旧をいそぎ、翌14年11月にはほぼ竣工し、斉荘(なりたか)を犬山城に饗応してその威力の大きさを示した。

 


犬山焼 赤絵 雲錦手 湯呑 尾関作十郎陶房
犬山焼 赤絵 雲錦手 湯呑

加藤清蔵

(かとうせいぞう)

文政5年(1822)成瀬家の知行所である春日井群上志段味村から、犬山焼の発展をめざし綿屋太兵衛(大島暉意)に犬山に招かれた。清蔵はろくろの名手で、とりわけ大物作りを得意とし、そのうえ窯の焼き上げも巧みでもあったので大いに進歩をみた。

文政9年(1826)3月には、上志段味から虎蔵(寅造)がきて磁器の製造も始めたが経営は一向に好転せず、天保初年、窯主綿屋太兵衛はついに廃業のやむなきに至った。前途有望と思われた事業の挫折を惜しんで、成瀬正壽は清蔵に資金を扶助して窯主とした。そのころ水野上志段味から水野吉平が招かれ、清蔵の丸山窯復興を助けた。吉平は後に惣兵衛と改めた。赤絵にも堪能であったので、清蔵窯の白磁に上絵付された惣兵衛の作品は、明代の呉州赤絵の本歌に迫る程の悠品であった。

天保6年(1835)には、赤絵の名手道平も加わってさらに優れた赤絵物が生み出された。現在残るこの時代の赤絵、雲錦手等の作品の大半は清蔵のろくろによって作り出された。

清蔵はまた皿や鉢の外側に、竜等を千彫りしたり、雲錦模様を上絵付したものの内側に漆を塗り、金蒔絵を施した漆器をも試作した。犬山焼発展のために、全力を傾倒した大恩人といえよう。

 


犬山焼 赤絵 抹茶茶碗 尾関作十郎陶房
犬山焼 赤絵 抹茶茶碗

松原惣兵衛

(まつばらそうべえ)

旧姓を水野吉平といい、文化2年(1805)11月13日春日井群志段味村で出生。

天保初年、犬山焼丸山窯の窯主となった加藤清蔵から成瀬正壽に願い出て、招かれて犬山に来て清蔵の窯に協力した。吉平は丸山新田に住み、後に松原仙助の娘の婿養子となり名も惣兵衛と改めた。

惣兵衛の生い立ちは詳らかではないが、京焼の磁祖であり赤絵の名工といわれる奥田頴川の弟子で木米・道八等と同門の、瀬戸の頴渓に師事磁器焼成や赤絵の技術を習得したのではないかといわれている。惣兵衛が使用した赤絵の具は独特の色合いと重厚な味わいがあり、今も「惣兵衛赤」としてその調合が伝えられている。

 


富貴長春
富貴長春

 

また道平を犬山に将来したのも惣兵衛であって彼が犬山焼に寄与した功績は偉大であった。当時犬山あたりでは呉州赤絵の名品に接する機会はおそらくなかったと思われる。正壽・正住等は犬山焼にとくに熱意を持ち、広く呉州赤絵の品々を求め、また、正住は三光寺御殿の庭に上絵窯を築かせ惣兵衛等の職人を召しいて意匠等にいろいろ工夫を凝らせた。これが赤絵や雲錦の優れた作品を生み出す基となしていると思われる。

惣兵衛は神社・仏閣に多くの作品を寄進しており、中でも継鹿尾山寂光院旧蔵の仁王像香炉万蔵院の狛犬及び赤絵瓶子各一対、針綱神社赤絵瓶子東之宮杜狛犬一対、滿寺赤絵花器一対等が知られている。これらの作品にはそれぞれ、惣兵衛・清蔵・所助・道平等の寄進者名と作者銘が記されている。

 


犬山焼 赤絵 松原惣兵衛 尾関作十郎陶房
犬山焼 赤絵 菓子鉢 蘭手

尾関作十郎信業

(おぜきさくじゅうろうのぶなり)

初代 尾関作十郎

文化2年(1805)4月5日春日井群林村において製瓦業を営む常八の長子として生まれた。

幼い頃から学問に親しみ、名古屋藩士の岡孟彦に就いて国学を修めた。生来敬神尊王の志厚く、殖産興業の念も深かった。

文政10年(1827)父 常八が成瀬家の御用瓦師 市郎兵衛の株を譲り受け、引き続き御用を仰せつけられた。製造所を犬山に設け、父に代わり事業を監督し犬山に寓居した。以後本業のかたわら付近の林野を開拓して桑・茶・果樹等を栽培、嘉永3年(1850)から製茶業を兼業して販路を信州方面にまで拡張した。また、この地方は上古には養蚕・製糸も盛んであったが、その後衰えて、嘉永・安政のころには絶えて養蚕する者もないのを嘆き、率先して飼育研究、近隣にこれを指導奨励したため当地の養蚕は他の群村に先だち盛んになったといわれている。


犬山焼 本窯元 尾関作十郎陶房

さらにまた犬山には、元禄年間より犬山焼の製造が行われ、今井村の庄屋伝三郎が窯主となり美濃の陶工の手によって焼き出されたが安永10年(1783)に一旦廃絶した。

名工等によって赤絵呉州・雲錦手・染付磁器等、多彩な名品佳器を焼き出し地方の特産品として発展させようとしたが維新の変革期に遭遇して再び衰微の途をたどり廃絶の危機に瀕した。これを惜しんだ作十郎は、清蔵・惣兵衛に資金援助を与え、また自らも慶応2年(1866)製瓦場の傍に陶窯を築いて茶壺等の製造を試み、一応は成功を収めた。

しかし明治初年に及んで、清蔵等は廃業のやむなきに立ち至った。犬山藩はこれを復興しようとして、新たに物産方をおいて瀬戸から加藤善治を招き、専ら製陶に従事させたが、これも幾ばくもなく廃藩とともに休止するに至った。

ここにおいて作十郎は犬山焼の継承を決意し、藩の経営した製陶場を譲り受け、陶工を選択・原土を精選し、工場を増設する等努力を重ね、失敗にも屈せずようやく復興し今日の犬山焼の基を築いた。犬山焼中興の祖といえよう。

 

明治六年(1873)製瓦、製陶の業を長子 善左衛門(二代目作十郎信美)に譲って引退、名を閑平と改め専ら風月を友とし懐を吟詠に託し、石州流の茶人長島閑哉・神戸弥左衛門・赤堀鉄丸等と交友した。

 

 

「尾関作十郎信業陶窯跡愛知県」の記念碑がモンキーパークのバラ苑内にある。

 


犬山焼 尾関作十郎信業陶窯跡 記念碑
犬山焼 尾関作十郎信業 陶窯跡 記念碑